両親への想い

母が父のもとに旅立ちました。 本当に安らかな顔をして、87年の人生に幕を閉じました。 人に感謝する人、人を大切にする人、人を愛する人、一人ひとりの心に深く深く寄り添う人でした。 心がこもった手紙、電話で深々長々とお辞儀する姿は母の代名詞。 家族にはもちろん、親族、私や妹の友達一人ひとりにも大きな愛情を注いでくれました。 人の為に働き続けた母、晩年大病をする以前に、母が休んでいる姿を見た記憶はない。 ようやく、ゆっくり休めます。 お母さん、天国でお父さんとのんびり暮らしてください。
【加世田カズ子】 3度の飛び級、医学部卒業、「九大4人組」と言われた医師(今泉次郎助)の長女として昭和13年8月25日に生を授かる。 次郎助は結核の研究中に感染し、32歳の若さでこの世を去る。 この時、母は4歳。 息を引き取った父の上に乗ると、口から息が出てきたので、「お父さん生きとんしゃーよ(生きてるよ)」と不思議に祖母に語ったそうだ。 その後、祖母が開業中の病院を旅館に改装し、女手一つで二人の子を育てる。 母は高校卒業後、国家公務員として九州大学病院に勤務。 19歳で尿路感染を起こし、命存続の危機に襲われる。 かろうじて乗り越えるも、片方の腎臓を摘出。 数年間の入院生活を経て、祖母の旅館業を手伝う。 医師からは「子どもはできないだろうし、体に負担がかかりすぎる」と言われ、結婚は考えずに祖母を支え続けた。
さて、祖母の旅館の近くに高校がある。 バレーの名門校、全日本トッププレーヤー横山樹里(モントリオール五輪金メダル)を生んだ高校だ。 そんなバレー部の合宿中の滞在先として候補にあがったのが祖母の旅館。 値交渉で、校長先生とともに旅館を訪れたのが亡き父、加世田勲だった。 破格の値段を提示され、母は祖母に宿泊を断るように伝えたという。 それでも、旅館オーナーの立場からすると、近所関係、人とのつながりも重要であっただろう。 バレー部団体を受け入れた。 全国有数のバレー選手、食べる量は半端じゃなかったそうだ。
その後、私も旅館で何度かバレー部員らを見たが、もの凄い量のご飯がいくつもの木製の大きな桶(おひつ)に用意されているのを覚えている。 利き手と反対の手でお箸を使っていた姿も記憶に蘇る。 そして半年後、またしても、あの「値交渉の」校長と父が旅館を訪れた。 それに気づいた母は、祖母に「また来ているから、今度は絶対に断って」と伝えたそうだ。 しばらくすると、祖母が母を呼びつける。 「なんか、違う話をしにきんしゃったごたーばい(何か違う話をしに来られたようだよ」と。 母は首をかしげる。 「あんたば、もらいにきとんしゃーごたーよ(あなたをもらいにいらしたようだよ)」と。 「はぁー、わたしを」と目を真ん丸にする母。 母は体が弱くて、子どもは作れないかもしれない。 加世田家の長男、海上自衛隊あがりの教師である父にはもっと相応しい女性がいるのではと言うも、一目ぼれした父の決意は固かった。 「子どもはできなくてもいい、しかし、きっとできるであろう」。 ポジティブ思考でぐいぐい迫る父に、母親が決意を固めるのに時間はかからなかった。
そうして、ほどなく結婚。 決して金銭的に恵まれた家庭ではなかったと思う。 購入した土地は田舎も田舎、田舎の中でもひと際、人里離れた山奥にあった。 その当時は近くに住宅はなく、自ら土地を開拓し、ちょうど祖父の会社の社宅が解体されたので、解体された2軒分の材料を使って我が家が建てられた。 都会育ちの母にとって、山奥での暮らしは、どんなに心細かっただろうか。 しかも、父の両親に加え、父の二人の弟も同居する巨大家族だ。 毎日5つのお弁当を用意して家事をこなすのが新婚生活の始まりだったという。 そして、すぐに懐妊するも流産。 「やはり、子どもは難しい」、母は申し訳ない気持ちで一杯だったという。 翌年、再度懐妊。 しかし、またも流産の危機が訪れた。 祈り続ける母に父は語りかけた。 「俺の子だから、しっかりへその緒につかまっとうくさ(つかまってるよ)」。 そうして、無事に生まれたのが私だった。 先祖は薩摩の武士、故郷と国を愛する両親から、「お国に与える武士」という想いが込められた名前「国与士」をいただいた。 3年後には、妹の善江(善きこと江(川)のごとく広くあるように)が生まれた。
母は、生涯を通じて、父に感謝して感謝して感謝して生きた。 幼少の頃から、「私達はお父さんのお陰で生きていける」、「お父さんの為、お父さんの為」と黙々淡々と家事、育児をこなしていた。 一方の父は、口には出さないが、母の為に日々山からドクダミやレイシを採取して、煎じて母に飲ませていた。 少し体調が悪いと、腎臓がうまく機能せずに尿が出なくなる母であったが、ドクダミ茶、レイシ茶で乗り越えていた。 私達もそれを飲まされたが、苦くて心地よいものではなかった。 決して良い思い出とは言えないが、当時から両親の絆を感じていた。
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